大伴皇女墓


大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で古事記には大伴王と記されています。兄弟には推古天皇、用明天皇がいます。したがって大伴皇女は聖徳太子の叔母さんという事になります。

 

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この墳墓は平安時代に書かれた延喜式には「大伴皇女押坂内墓」とされ現在、宮内庁で管理されています。

 

調査されていないのでその実態はわかりませんが、大正年間に測量調査が行われています。(左図)「三方山囲み」の南面する地勢に造られている単独墳で立地からみると終末期古墳の可能性があります。尚、「奈良県遺跡地図 」では15-A-77と記されています。この古墳については実態が全くわからなかったのですが戦前の「磯城」という書物に数行だけですが大伴皇女墓は奥室を持つ古墳として伝承されているとの記事があり興味をそそられます。詳細はこのページをご覧ください。

 

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万葉学者の犬養孝さんは、この場所に立って著書「万葉とともに」でこう記されています。

「・・・やや高みのところに欽明天皇の皇女、大伴皇女の墓がある。ここから南を振り返れば、中央すぐ下にこんもりとした鏡王女墓をおいて、遠く左手に音羽山のおおきな山塊を、右手には多武峰の山容をのぞみ、こんにちの大和では珍しく、ただ一軒の家もなしに、晩秋もみじの頃など、四周は黄に褐色して紅に染められて、満山椒として声なしといってよい。静寂の山ぶところとなるのである。将来はわからないにしても、せめてこのやまぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである。そこには千三百年の声々が、心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生きづいているのだから」