忍坂山(外鎌山)


忍坂山(おさかやま)は標高292mで今は外鎌山(とかまやま)と呼ばれています。「大和志」には恩坂山として「忍坂村東、連旦慈恩寺竜谷村、又有高円山小倉山之支別」とあり「萬葉集」巻八の 岡本天皇(舒明天皇)のご製歌として 夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしもとある小倉山とも考えられ5世紀に日本を統一国家にした雄略天皇の泊瀬朝倉宮を眼下に見下し南麓には王権の武器庫や忍坂宮がある初瀬谷の入口に位置します。

 

万葉集には 隠国の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出で立ちの くわしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも 作者不詳(巻13-3331) 

と挽歌(人の死を悲しみ悼む歌)として、この山が詠われています。 隠国(こもりく)は泊瀬(はつせ・・・長谷、初瀬)にかかる枕詞、青幡(あおはた)は忍坂山にかかる枕詞で走り出は山のスロープ、出で立ちは山の垂直性を表します。「泊瀬の山、忍坂の山は、家から出て眺めると姿の良い美しい山である。この立派な山が荒れるのは本当に惜しいことだ」との意味と解釈されています。(日本古典文学大系・岩波書店)

 

県立図書館長の千田稔氏は、産経新聞の「記紀万葉の風景」で忍坂山を「死者が葬られた円錐形の山」として「挽歌として位置づけられているのは死者がこの美しい山に葬られたからでしょう。」と述べています。 それを裏付けるように外鎌山(忍坂山)周辺は奈良県遺跡地図(奈良県教育委員会発行)では朝倉台団地造成時に調査された外鎌山北麓古墳群(約35基)を含む126基もの古墳が存在していました。これらの古墳の多くはヤマト政権を支えた王朝貴族、豪族の墳墓と思われます。万葉集の忍坂山の挽歌は、ひとつの見方として山の木々が切り倒され地肌があちこちで目立つさまを嘆いた歌という見方ができますが山林を切り開いて住宅開発をする現在も人間のやることに変わりがないということなんでしょうか。