忍阪ヒストリー


隅田八幡宮人物画像鏡
隅田八幡宮人物画像鏡

奈良県桜井市忍阪は桜井市の中心部から南東へ車で約10分、宇陀へ通じる国道166号線沿いの山麓に広がる集落です。古事記や日本書紀に神武天皇が大和を平定する際、この忍阪で待ち受けていた八十建を征伐した「忍坂大室屋」の伝承地として知られています。

 

和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の国宝で日本最古の金石文の一つである人物画像鏡に刻まれた文字の中に『癸未年・・・在意柴沙加宮時(おしさかのみやにいますとき)・・』という文字が見られることは広く知られるところであり、癸未年については西暦443年と503年説が有力と言われています。443年説にたてば第19代允恭天皇(5世紀中頃没)の皇后である忍坂大中姫の忍坂宮である可能性を示し503年説の場合は継体天皇が即位前に、忍阪にいたことになるのです。

 

443年説に立つ和田 萃、京都教育大名誉教授(古代史)は「忍阪の地は大和王権にとって極めて重要な地域で、允恭天皇の皇后である忍坂大中姫の宮が存在し息長氏(おきなが)の本拠地である近江の豊富な鉄資源をもとにしてつくられた武器類が忍阪の武器庫に収められ(後に石上神宮に移された)ヤマト王権を支える強力な力になった」と述べています。

 

忍阪が近江の豪族、息長氏の大和における拠点だったのではないかとの考えは息長氏の血を引いているという忍坂大中姫、そして妹の衣通姫(そとおりひめ)の出生地が近江である事、舒明の父、忍坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)は非蘇我氏系皇族「忍阪王家」の祖であり母(広姫)も息長氏の出身、舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」(おきながたらしひひろぬか)、また舒明が忍阪に改葬されるに際しては息長山田公という人物がしのびごと(死者に対して慰めの言葉をかける事)を述べているという事実等、忍阪と息長氏との深い繋がりがうかがえます。やがて、この一族が皇統の主流となって行くのです。

 

忍阪の集落には舒明天皇をはじめ7世紀の宮廷を多彩に彩った田村皇女(舒明天皇の母)、鏡王女、大伴皇女たちが静かに眠っています。