脇本遺跡


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この脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた泊瀬谷の入り口にあたる場所にあります。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が十三もあったと伝えられ大和王権の中心地域でした。

 

しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っているのですが、脇本遺跡に限っては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会で行われ5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見されています。 

 

5世紀のものについては→雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡 ,6世紀については→欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡 、7世紀のものについては→大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されてきました。この地は、すぐ近くには王権の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。5世紀後半にこの朝倉宮にいた雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇(当時は大王と言う名前で呼ばれた)です。

 

脇本遺跡へは近鉄、大和朝倉駅から約500m(徒歩、約10分)です。尚、発掘調査は断続的に行われており、いつも現場が見られるわけではありませんが冬場は比較的調査される時が多いと思われます。